神や仏のおわす霊妙で神秘的な山は、同時に奇っ怪で恐ろしい鬼の世界にも思われます。そもそも九頭龍もその名で呼ばれるようになったのは後世のことであって、一二七五年完成の『阿娑縛抄』では「九頭一尾鬼」と呼ばれていました。もっとも蛇の怪物を鬼といったのであって、いわゆる鬼らしい鬼ではありません。それはともかく、九頭一尾鬼は「九頭龍と仏の物語」で紹介したので、ここでは省きます。いわゆる鬼らしい鬼の話をいくつか紹介しましょう。
戸隠の鬼が活躍する物語の最初は、おそらく、南北朝時代中期に成立したとされている中世の説話集『神道集』の官那羅でしょうか。
人々を仏道に導き入れるために、物語を語って聞かせる安居院唱導教団とでもいうべき集団があったようです。その語りの種本として南北時代の作かと思われる『神道集』があります。仏道に導く『神道集』というのは現在では妙ですが、日本の神の本体は仏であるという本地垂迹説が横行していた時代ですので、その辺は気にしないでください。その『神道集』の中に、「諏訪大明神五月会事」という諏訪大明神の縁起がありますが、中心は官那羅という戸隠の鬼が活躍する話です。人のいい鬼というのも変な言い方ですが、人間の方がずるがしこいという話です。
『諏訪大明神
そもそも、諏訪の大明神の五月会というのは、
それで、人々が業平を愛すること限りなく、女房たちは、彼に思いをよせる者も、よせない者も、彼のことを気にしないということはなかった。
業平は
光孝天皇の時代、信濃の国に一人の鬼王がいた。日本国に来てから九年になる。都へ常に上って人を犯すこと実に数限りない。鳥の類、童子あるいは美女と、それぞれ相手の望みのままに身を変じて遊びまわった。
この鬼はたいそう笛を好んで、世界には自分ほどの者は一人しかいないと思っていた。名を
この笛の素晴らしさは、口に当てれば、師から習わなくても、思うようにいろいろな曲を吹くことができる。ただし、笛の吹き手をえりごのみする。総じて音声あるほどのものならば、自分の心にその音声を思い浮かべれば、自由自在である。また事の善悪、吉凶まで覚ることかできる。ただし、臣下以外ではそうはいかない。
在五中将の業平はなんとしてもこの笛を手に入れてわが国の財宝にしたいと思い、笛を百本こしらえて、腰に差したり懐に入れておいた。そうして、あの鬼王に会うため高山や幽谷に出かけていっては、夜ごとに秘曲を吹いたので、天人をはじめ鬼畜にいたるまで、
そのうち、ある夜の遊びに、例の鬼王と出会い、共に
業平は鬼王の笛を手に取って、
「あなたがどういう天人でいらっしゃるか、わたしは知りませんが……」といいつつ、
鬼王は、
「もうまもなく鶏も鳴くでしょうから、笛をいただいて帰りましょう。明日の夜はどこで遊びをなさいますか。あの大原の松の下がよろしいと思うのですが」という。
業平はこれを聞いて、
「
鬼王は、
「どこでもよろしいです。会いに参りましょう。ただ、その笛は、頂いてまいります」という。
業平ははっきりしないでいて青葉の笛を隠し、取り換えて別の笛を出す。青葉の笛と少しも違わないのだが、鬼王は、「これは違う」といって受けとらない。取り換えては出すのだが鬼王は「これは違う」といって受け取らない。鬼王は業平がふざけて自分の心をじらそうとしているのだと考えて時間を過ごすうちに、鶏が鳴いてしまった。鬼王はたいそう驚き、笛の事を放っておいて帰っていった。魔王は鶏の声を聞くと威力を失ってしまうのである。
さて業平は、笛をうまく取り上げたのだが、夜の明けぬうちに、その笛を帝に献上した。帝は、人間世界のどのような賢王でも、これほどの笛は持つことはないだろうと喜ばれ、何事につけても日本国は他の国よりも素晴らしい国である、と思われた。また業平の威勢も日増しに盛んになった。
一方、鬼王の官那羅は、中一日おいて
「その笛は、この鬼王にとっては五十七代まで伝わってきたものです。早くお返し下さい。代わりの笛を探してさし上げますから、その笛はお返し下さい」といい、
「あなたは正直な帝でいらっしゃいます。どうしてお返し下さらないことがありましょう」ともいった。
帝は、返したくないと思われたから、どうとも返事をなされない。
鬼王は怒って、正体をあらわすと、身のたけは二丈ばかり、体の色は五色で、身から火を吹き出し、燃えて出る気は風となる。人々はそれに悩まされ、都中は大騒動になった。鬼王の出す気の風にあたって苦しむ者は幾千人とも知れなかった。
それでも帝は首をお振りにならず、
「汝はこの王土に生まれながら、狼藉である。退散せよ」とおっしゃる。
鬼王は帝の言葉に恐れ入って退散したが、ただではさがらず、帝が寵愛なさる十五歳と十七歳になる若い二人の女房を引っさげて行った。
帝は心中穏やかならず思われて、鬼王追討に満清将軍を戸隠に下向させることとした。満清はその命令を受け、これは異界への長い旅になると思い、力及ばずとも思ったが出立することとした。満清は妻子と別れを惜しみ、人間として誉れあるのも今ばかり、悲嘆のほどもいうまでもない。満清は当年二十九歳、その七月十日に都を出立した。軍勢として従う者は二万七千余騎にも及んだが、みなこれを帰した。
昔は国王の崩御の時には、公卿一人、女房一人、侍一人を付けて土中に埋めた。この殉死の習俗は
供人は計十二騎を整えて下向した。将軍が宿場を次々に通過して行くと、美濃と尾張の境にある
「あなたはどちらへお出でになるのですか」と尋ねる。
「信濃の国へ」と将軍が答えると、行き会ったその人は、
「あなたは立派な大将軍とお見受けします。お供をいたしましょう」そういって連れだって下向した。
その夜は黒田の宿(愛知県一宮市)に泊まった。次の日、山道にさしかかって行くと、伏屋(岐阜県羽島郡)という所で、また年のころ三十四、五歳の男が、梶の葉の紋の水干に、白羽の矢を負い、
「あなたがたはどちらへお出でになるのですか」と尋ねる。先に出会った人が、
「信濃の国へ下向するところです」と答えると、今度行き会った人は、
「わたしは
将軍は二人の供ができたので退屈はしない。やがて境を越え、信濃の国の岡田という所で、将軍は出会ったこの人たちに、
「あとどのくらい連れだって行けますことか」といった。
二人の侍は、
「将軍は、どちらへいらっしゃるのですか」とたずねる。
そこで将軍は、
「今は何をお隠し申そう。戸隠山でございます。鬼王を討ちとれ、という天皇の命令で、その使いに
二人の行き会った者は、
「それをどうしておっしゃって下さらなかったのですか。宣旨の書状を拝見させていただきたい」という。
そこで将軍は宣旨の書状をひろげて読み上げた。二人の行き会った者たちは、
「同じ木陰に雨宿りをし、同じ川の水を飲み、ただ一言言葉をかわすのも、行きずりに袖をふれあわせるのも、すべてこの世の事だけでなく、前世からの縁だといいます。そのうえ、宣旨のお使いでいらっしゃる。ご一緒に何とかいたしましょう」といってうち連れ立って行こうとする。将軍は、
「お志のほどはまことにはお礼の申しようもありません。重恩の者たちもみな都に留まらせてきました。あなたがたもどうかお留まり下さい」という。
二人の侍は、これを聞いて、
「われわれは二人ともこの国の者で、案内はよく知っています。鬼王は、宣旨のお使いが下向すると聞いて、戸隠山から出て、浅間の嶽にいます。およそ人の行かない所です。わたしたちが案内者になりましょう」といって、うち連れて下向した。
そうこうして浅間の嶽に登り、鬼王の城に近づいた。城郭の様子は言葉にいいようもない。震石の
「将軍はしばらくここでお待ち下さい。我ら二人、鬼王がいるかどうか見てまいりましょう」という。
二人の侍は太刀を抜いて門内へ討ち入った。鬼王も手下の
身のたけは二丈ばかり、身から火炎を出して、足は九つ、顔は八つの鬼神である。将軍も矢の続く限りに戦った。そのうちに鬼王は二人の侍を左右の手に一人ずつひっさげて門内へ入っていった。満清将軍はいよいよ力が抜けたが、すこしも騒ぐことはない。
しばらくして、二人の侍はあの鬼王を縛り上げ、先に追い立てながら出てきた。
そうして二人の侍は、
「将軍の心をためしてみようと思って、鬼王に捕えられたのです。あなたはすこしもお騒ぎにならない。さすが大将軍です」と褒め称えた。
鬼王を将軍の手に渡すと、二人の侍は、
「二つと無い命を捨てるつもりで鬼王を討ち取りました。将軍に従った兵士として安堵しました」そういって、二人は満清将軍と連れだって京に上ったのだった。
そして栗田口に着くと、信濃の国の人々は命じられて鬼王を縛った繩を取った。
二人の侍は、
「ここまでお送りしてきました。今は、鬼王を一刻も早く帝にお目にかけ、ご褒美をいただきなさい。われわれはここから帰ります」という。
将軍は、
「都に入り、帝にお目にかかって帰られるのがよいのではありませんか」という。
二人の侍は、
「わざと帝にはお目にかからずにおきましょう。おいとまします」と、二人はいうのだが、将軍は重ねて、
「お住まいはどちらですか、承りたく存じます」という。
その時、二人の侍のうち、先に行き会った者は、
「我こそは尾張の国の鎮守、熱田の大明神なり」といって姿が見えなくなった。
後から行き会った人も、
「われこそは信濃の国の鎮守、諏訪の大明神なり」といって姿が見えなくなった。
将軍はうれし涙を流し、再拝して別れたのだった。
そして都へ入ると、京中の
帝は満清を大納言にし、信濃の国をはじめ十五ヵ国を
そもそも諏訪の大明神だが、天竺の
これは前世において犯した罪が重いために、このようになったのである。
昔、善光王の時、彼女は后になったが、三百人の女たちに嫉妬し、大蛇と共に女たちをうつぼ船に入れて責め殺してしまった。その罪によって、こんな鬼王の身となったのだ。この世における業の報いを次の生でうける
その時、
「まるで鬼と二人でいるようなものだ」と心の内で思った。
時に、大王が釈尊をお招きし、御説法をしていただくということを金剛女の宮は伝え聞いて、
「わたしが、そのご
そこで王宮の方を礼拝し、
「わたしには、この人間世界の汚れた世はうれしくは思えません。私にもご利益を下さい」といった。
その瞬問、仏の眉間から光が放たれたかと思うと、金剛女の宮の姿は貴い仏の三十二相を具えられ、聴聞の席に列席した。
大王はたいそう不思議に思われ、この姫にはほかの者を
金剛女の宮の亡くなられた場所はだれも知らない。この宮は、仮りの人間で、
さて、よくよく考えてみれば、神武天皇はこの宮の御子で、先祖はみな今の諏訪の宮の先祖であり、守護のためにおられる熱田の大明神はこの諏訪の大明神の臣下の甥で、宇津宮の御子であり、宇津宮は諏訪の大明神の弟である。満清はこの大明神の
この満清の立願によって、諏訪の五月会は、始まったのである。
鬼退治で有名なのは
『太平記』の話は簡単すぎますが、これをふくらませた話が江戸時代に流行した人形劇の
六孫王経元とは清和天皇の第六皇子・
『六孫王経元』一六五九年(「金平浄瑠璃正本集」角川書店より)
初段目要約
二段目
その後、諸国の侍たちは、今度、六孫王経基公が源氏の姓を賜り天下の武将になられたと聞いて「いざ、御奉公申し上げよう」と、それぞれ経基公のお屋敷へ挨拶にあがる。おりしも経基公は少々差し障りがあって、
侍たちはそれぞれに千秋万歳の御喜びを申し上げたのだが、信濃の国の住人で望月左近の大夫有茂という者が進み出ていうには、
「今度、経基公が魔王を御退治になられたことは、天晴れ弓矢の誉れでございます。満仲殿はその御子息でありますから、ご自身でも変化の物をお討ちにならなければ、経基公の跡をお継になるのにも世の人の嘲りを受けることになりましょう。幸い私の国の戸隠山という所に鬼神が住んでいて、行き来の旅人を悩まし、牛や馬の家畜をつかんでは裂き、田の農民、山の
満仲は顔色を変えて、
「いかに有茂、汝の言葉は耳ざわりだ。よいか、武将の家を継ぐ者が変化を討たなければ人々の嘲りをうけるとは、どの軍書に書いてあるのか。父の経基は、帝の玉体を悩ます悪魔を退治(汚損で一部読めず)。化物がいない時には武士の頭にはなれないというのか。その上、国の仇と(汚損で一部読めず)。帝に奏聞の上、命令を待つか、そうでなければ、自身の考えで命じても鎮圧すべきである。お前の考えで私に討てと指図するのは怪しからぬ事である。無礼である。どうだ」と言われる。
望月は、しまったという様子で頭を地に着けて赤面していた。
ここに坂田の源太
「どうだ望月、ものを知らなければ教えよう。それ、侍の忠信は謀反を企て国家を傾むけようとする者を、ただちに言上し、もし大事なことをぐずぐずしていたら、大変なことになると申し上げるのが本分である。なんで悪魔や変化の物などを討ち取ることにあろうか。信濃の国にいながら自分自身の手で鬼神を討ちもせず、お上に申し出るのは侍の恥辱である。自身の恥辱もわきまえずに出てきて、利口顔に、御主君の満仲様に、お討になってはなどと気の利いたような考えを申すことこそ大笑いである。
お前がいうような事だから、それは定めて狐、狸のが化けたのであろう。お前のような大臆病者は侍の内に入れるのも穢らわしい。はやくそこを立さ去るがよい。どうでも一言でも口答えするならは、殿が、などとはいう必要もない。この金末が微塵にしてくれよう。どうだ」という。
満仲は御覧になっていて、
「よしよし。あの程度の侍は心のほどもそんなものであろう。このたびは、ここにお出での方々の手前もあり、許す」とおっしゃって席を立たれれば、一座の人々は御言葉に安堵して、
「まず、立たれよ」望月を引っ立てて宿所へ帰られた。
さて、その後、満仲は金末を呼ばれ、
「望月の言うことは、たとえ彼は身分賤しい者で、わきまえがなくいったことではあるが、私が若い身で鬼神を討てといわれて、討たないでそのまゝにしておくならば、理屈の善し悪しは別として、臆病者といわれたら悔しいことだ。密かにお前と私の二人で戸隠山に行き、鬼神を討とうと思う。どうだ」とおっしゃる。
金末はうけ給わり、善し悪しの判断はともかく、御供せよというからには、あれこれいうこともなく、ただ「ごもっとも」と申し上げる。
満仲は満足して、「それならば密かに出かけよう」と旅仕度をして、金末一人を供にして、信濃路目指して行く内に、ほどなく、野になった。
「いざ、諏訪の明神に願をかけよう」と、神前で
「南無や諏訪の大明神、戸隠山の鬼神を討せ給え」と深く祈られ、その夜はそこに籠もられた。
夜半頃のことであったが、諏訪の大明神は八十才ばかりの老人に変身し、松尾の神に一領の
「これ満仲、この鎧は以前に
満仲はがっぱと起あがり「あゝ、有り難いことだ」と、虚空を三度伏し拝み、すでにその夜も明けたので、そのまま出立なされた。明神からいただいた鎧に、
あちこちを見わたすが眼を遮る物もない(汚損で一部読めず)。
なお奥へと山にわけ入て見れば、大きな岩穴がある。満仲は穴の脇に立ち寄って大
「さあ、鬼神もよく聞け。我を誰だと思う。清和天皇の御孫、六孫の嫡子、満仲とはわが事である。どうあっても逃がさぬから尋常に出てまいれ。どうだ、どうだ」とおっしゃる。
その時、草木振動して、その身丈が一丈ほどの鬼神が岩穴の中から現れ、満仲を目がけ、ただひと噛みにしようと飛びかかる。満仲は体をかわして、
第三段以降は、金平浄瑠璃のパターンよろしく金末とその子である坂田金時が、敵役の望月に悩まされる苦労話へと話は進み、もう戸隠は関係ありません。
源満仲の子が頼光で、お話の世界では満仲の家来の金末の子が坂田の金時ということになっていて、子供同士の頼光と金時も主従の関係です。そして江戸時代の一場面だけの他愛もない絵本ですが、頼光と金時も戸隠山で鬼を退治しています。ですから戸隠山の鬼は随分と有名だったのでしょうが、その頼光と金時が大江山で退治した酒典童子が戸隠で活躍する浄瑠璃もあります。
『
初 段
しかし、寺に入った悪童丸は、気にくわない者があれば、腕を取ってねじ曲げ、腰骨を打ち折り、乱暴はなおりません。そこで、寺の稚児、法師たちは「乱暴が続けば参詣の人々まで悩ませ、寺は衰微して鬼や狐の住み家となってしまいます。悪童丸を、追い出して下さい」と上人に訴えました。
ところが悪童丸は「法師どもが俺を侮どるから乱暴もしようというもの。自分の非を棚に上げ、俺を追い出そうとは以ての外。出来るものなら俺を追い出してみよ」と、仁王立ち。
寺中の法師が手ぐすね引いてひしめくと、悪童丸は銅のような爪を怒らせ、太刀、長刀をとって取り巻く一山の稚児、法師を樫の木の棒でたちまちに百六十人も打ち殺します。そして寺中に火をかけると、信濃の山へと落ちて行ったのでした。
二段目
戸隠山には、四人の盗賊の頭領が三百余人の手下を従えて立て籠もり、往来の者を襲っていましたが、国上の寺を出て戸隠山に分け入った悪童丸の前にこれらの盗賊が現れます。
こうして悪童丸を頭に戴いた盗人共は岩屋に城郭を構え、いよいよ悪事に励みますから、近隣の住民たちは、門戸を閉じ、出歩くことも出来なくなってしまいました。そこで国の大将、
こうして、
険しい戸隠山を前にして官軍が
ひとりになった悪童丸は、腹を立てると、一丈ばかりの
三段目
生き残った官軍共が都へ帰り、悪童丸をどうしたらよいかと相談していると、
「悪童丸の親の石瀬夫婦を召し取って、獄屋に押しこめれば悪童丸とて、親を見捨にはしないでしょう。出頭してきたところを獄屋におし籠め、押し殺したらよろしいでしょう」といいます。
こうして親が捕らえられたことはすぐに悪童丸の知るところとなります。
「あゝ、口惜しいことだ。しかし、まず父母を出してもらって俺が代わりに牢獄に入り、時刻を見計らって踏み破ることにしよう」と、都に上ったのでした。
庭上に伺候した悪童丸は頭を地につけ、「この悪童丸を代わりに牢獄に押しこめ、父母を、助けていただければ、
四段目
さて、大力の悪童丸こととて、三尺の詰め牢に八、九寸の材木を七重八重に貫をいれ、楠の丸太を手かせ足かせにして押し込み、髪を四方へ取り分けて天井に
「大唐までも並ぶものなき悪童丸も食事を与えなければ干し殺しだ」
「それもそうだ。しかし、あれ程の力持ちが、この牢を破らずにいるとは、あわれなことだ」ともいいます。
これを聞いた悪童丸は、
「さては我を飢え死にさせようというのか。しかし、奴らがいうように、この牢を破らずにいるのは心残りなことだ」と、日の暮れるのを心待ちしていました。
さて悪童丸、眼を塞ぎ「南無戸隠の明神」と心に念じてある限りの力を出し、足を「えい」と引けば、
かくて、悪童丸は、また信濃国の戸隠山に上り、「押しつぶした人の数は、恐らくは十万に及ぶだろう。
小法師と見えたが、実は、眼は鏡の照るのに似て
悪童丸はこれを聞て、「さてはそういうことであったか。さてこの国はどこの国か」。
「無色界である。今に魔王が出現し、
と、にわかに虚空が振動し、玉座に現れたのは色界に住む
しばらくして修羅王が「どうやら、人の匂いがする。連れて参れ」といいます。善界坊天狗が、悪童丸を押し出すと、修羅王は、「
「もう三熱の時刻か。いかに悪童丸、天人の
「どうだ悪童丸、この苦しみをよく見ておけ。さて、汝のこれからの一生を語り聞かせよう。汝が越後に帰ると、天より四人の鬼が下り臣下となるだろう。さらに比叡山に上るが、伝教大師に山を追い出だされる。それから、高野山に上るが、ここでも弘法という
五段目
悪童丸は、「父母はどうなされたであろうか」と、戸隠山を出て、越後の国へと急ぎますが、父は八十年以前に、子の悪童丸が帝に背いた
都に着くと東山に立て籠もり、
「その通りです。
「左様か。俺は若年の昔より常に酒を好んだので今より名を
ところが山の御主である伝教大師が駆けつけて、
「汝ら、我が住む山に来ることは許さない。早く出ていけ。
酒典童子はこれを聞いて、
「面白い。衣を着た僧に向かって腕立てはしないことにしよう。邪法と正法の勝負だ」。
「お前が常に用いる天に上がり、山を裂く、術をやってみよ」と伝教大師。
「それこそ望むところ」と、石熊童子が天に向き呪文を唱えると、枯れた草木に花が咲き木の実を付けます。伝教大師が虚空に向かって、息をふっと吹きかけると、大風となって咲き乱れた花を庭の塵と吹き散らす。
次に控えた金熊童子が手を打って目を塞ぎ何か念じると、三十丈の楠が俄に生えでます。伝教大師は騒ぐことなく「
茨城童子が腹に据へかねて、奮迅の修羅となって天に向かって叫ぶ声は雷のようでした。伝教大師が少しも驚かず、黙然として座っていると、鞍馬の山の
その時、伝教大師は、「さもあらん。さっさと山を出て行け」と酒典童子たちを払い除けます。童子たちは、それから丹波の国の大江山に立て籠もり、さまざまの悪事をすることになります。
仏法の有り難さ、酒典童子が由来、斯くの如くと聞へし、末世の不思議、これなりと、皆感ぜぬものこそ、なかりけれ。
『紅葉狩』室町中期(半漁文庫の平林香織入力による。ただし、アドアイの部分は山本東本による)
本来は謡ですので、独特な表現があります。地の文にあたる地謡がシテの詞のように心情表現をすることも、逆にシテが地謡のように自身の行動を語ることもありますし、ワキとワキツレが声をそろえて謡うこともあります。シテとワキの詞が一体化している場合もあります。これらを現代劇的に口語訳すると、不自然な表現も生じてしまうので、適宜調整をしてあります。御承知おき下さい。
人物
女(実は鬼神)
その侍女
平の
その従者
(若い女が紅葉を尋ねて侍女たちと登場)
女
(観客に向かって)これはこのあたりに住む女でございます。
まことに生き長らえてこの憂き多い世に住んでいたとしても、今はもう、だれも私のことなど知らず、白雲が八重に重なるというその八重の
あまりにもさびしい夕暮れに、しぐれてくる空を眺めながら、あたりの木々の梢の色づくさまもなつかしく思われ、こうして連れ立って出かけてきた。
侍女1 連れ立って出かけて来た道ばたの、草葉の色も日ごと深くなっておりますが、木々の下枝の紅葉は、夜の間の露が染めたのでしょうか。朝の野原は昨日より、色の深い紅で、その紅葉を分けて行けば山は深く、いやまったく、風のかけた
紅葉の錦を断ち切らないように、まずこの
侍女2 やあ、ほんとうにみごとな紅葉でありますこと。この所に幕を引きまわして、お酒を一つおあがりなさいませ。
(木のもとで女たちが酒宴を楽しんでいるところへ、平の維茂が弓矢や太刀を持った従者たちを引き連れて登場してくる)
維茂 面白いなあ。時は
従者1 夜が明けたといって、野辺から山へと鹿が入って行きます。その鹿のあとを追うように吹いてくる風の音を聞けば、
従者2 勇ましい男たちが、いよいよ勇み立って弓矢を持ち、野の
(維茂は山陰で酒宴を楽しむ女たちに気づく)
維茂 (従者に向かい)だれかいないか。
従者1 ここにおります。
維茂 あの山の陰の所に人影が見える。あれは、どのような者か、名を尋ねて来い。
従者1 かしこまりました。
(従者は女たちのところへ行く)
従者 もしもし。どなたかいらっしゃいませんか。
侍女 どなたか、とおっしゃるのは、どちらさまでいらっしゃいますか。
従者 ここにおいでになられますのは、どのようなお方でいらっしゃいますか。
侍女 (維茂の方を指して)まず、あそこにおいでなのは、なんと申すお方でありますか。
従者 われらは平の維茂でございます。
侍女 そちらが、「これもち」であっても「あれもち」であっても、それはどうでもよろしゅうございましょう。こちらはただ「あるお方」とだけ申しあげてくださいませ。
従者 承知いたしました。
(従者は維茂の所にもどって報告する)
従者 名を尋ねに参りましたが、身分の高い女の方が、幕を引きまわして屏風を立て、酒宴の最中と思われましたので、
維茂 ああ、ふしぎなことだ。このあたりでそのような人がいるとは思いもよらない。とはいえ、誰であるにしても、身分の高い女性が道のほとりで紅葉狩をしている。とりわけ酒宴の最中とあっては、いずれにしても無礼にも馬に乗ったまま通るわけにはいかないな。
(維茂、馬から下りる)
地謡 維茂は馬から下りて、足音を立てぬように
(通り過ぎようとする維茂に女が呼びかける)
女 まことに、とるに足らぬ身分の者ではありますが、この山の奥に来て、他人は知るまいと気を許し、ひとり眺めていた紅葉です。その
維茂 わたくしには、あなたがどのような方ともわからないが、ただ高貴なお方に遠慮して、そっと通ろうとしているだけのことなのです。
女 わたくしが誰であるとも、ご存じでないにしても、案内をご存じでないこの道のほとりで、縁あることとお立ち寄りなさいませ。
維茂 これは思いも寄らぬお言葉であります。どうしてわたくしをお留めなさるのでしょうか。
(こういって維茂が何事もないかのように、さらに過ぎようとすると)
女 ああ、つれないことを。さっと一雨降る村雨の雨宿りに、同じ木の陰に立ち寄るのも、同じ川の水を汲むのも前世からの約束。ここで二人が出会い、こうして共に飲もうと酒を勧めるのも、前世からの約束。なのに、どうして見捨てて通り過ぎようとなさるのですか。
(こういって女は維茂に近づき、維茂は酒宴に加わる)
地謡 恥ずかしい振舞ながらも、
維茂は「ここは露の多い山路、その露に縁のある菊の酒なら、飲むのになんの差し支えがあろうぞ」と心弱くも女達の酒宴に立ちもどる。
いやまことに、中国の
このような美しい女性がいなくても、乱れる時は酒の席、酒をほんの少しであっても受けまいと思うであろうが、盃に向かうと気が変わってしまうのが人の心というもの。
それで仏の
女 どう見えようと、ままよ、しかたがないこと、思えばこれとても、前世からの契りの浅くないゆえ。
地謡 前世よりの契りの浅くはない思いの深さがあらわれて、このような折にも道のほとりの、草葉に置く露のようにはかない恨み言、頼む行く末を契るのも無遠慮なことながら、相手の心は分からないことと、二人共に立ち迷っている様子である。
こうして時刻も移り行き、雲の中に嵐の音がするようだ。嵐に散るのだろうか
女 「堪へず紅葉、
地謡 「堪へず紅葉、青苔の地」(ものさびしく感に堪えないのは紅葉が、青い苔の上に散り敷くさま)、さらにまた涼しい風が立つ。やがて暮れてゆく空に、雨が打ちそそぐ夜嵐のぞっとするほどのものさびしさ。そのものさびしい山陰で、月の出を待つ間のうたた寝に、片敷く袖も露にしっとり深く濡れている。
(酔い伏した維茂を見ながら)
女 深い夢を
(女たちは退場する。場所は都の八幡宮の設定で、
武内の神 ここに控える者は、
(武内の神は都から戸隠山に着く)
武内の神 いや神通力を得たので、一瞬にして戸隠山に着いた。さて、あの維茂は、どこにおいでになるのであろうか。
おお、あそこにおいでになる。ああ、うれしいことに、まだ無事だ。急いで八幡宮の神勅の通り申し渡そう。
(眠っている維茂に向かって)
どうだ維茂、たしかにお聞きなされ。最前、御身に酒を勧めた女は、人間ではなく、この山に住む鬼神どもであるが、御身をたぶらかし、命を取ろうとするのを、かたじけなくも八幡宮はよく御存知あって、急ぎこの末社に駆けつけ、危機を告げ知らせよとの神勅を受け、武内はここに参ったのだ。それ、八幡宮がこの
(維茂の前に太刀を置く)
おやおや、正体もない様だなあ。(足拍子を打って)はやく目を覚まされなされ。目を覚まされなされ。
(ここで武内の神が、維茂が戸隠山に鬼神退治に来たことを説明しているが、この箇所は間狂言といって、謡曲の本体ではなく、後に適宜付け加えたものといわれている。したがって、勅命による鬼神退治はひとつの解釈で、謡曲の中で勅命による鬼神退治が語られているとはいいがたい点がある)
(武内の神、退場。維茂は目を覚ます)
維茂 ああ、あさましいことだ。われながら、心をまどわす酒に酔い、まどろむうちに、あらたかな八幡宮の夢のお告げだ。
(維茂、太刀を手に取る)
地謡 目を覚ませば枕もとに稲妻が乱れ飛び、天地に雷鳴が響きわたり、風は吹き落ちて、あたりの見当もつかない山の中で、維茂も心細いことよ、恐ろしいことよ。
(鬼神の正体を現した女が登場)
地謡 不思議なことだ、これまで酒宴に興じていた女が、不思議なことだ、これまで酒宴に興じていた女が、それぞれ化物の姿をあらわし、あるいは岩の上で火炎を放ち、または空中に炎を降らし、三ヶ月間燃え続けた中国の
この時、維茂、いささかも、騒ぐことなく、
「どうか八幡大菩薩、守りたまえ」と、
心で祈り、剣を抜いて、待ちかまえていると、
維茂の威勢たるや、まことに恐ろしいものであった。
戸隠の旧別当家の久山家に江戸時代初期と思われる絵巻が伝わっています。主人公の名前は維茂とは異なっていますが、これも謡曲の『紅葉狩』を物語化して絵巻に仕立てたものです。
『とがくし山』 江戸初期(大島由起夫「『戸隠絵巻』考」、及び、島津久基「紅葉狩(戸隠伝説)」を参照して口語訳)
それ、天下泰平に治まるには、仏法をもって政道の中心となし、五常を守り、信心を深くすれば、どうして国民が平穏無事でないことがあろうか。
ここに神武天皇以来、四十四代に当たらせ給う
されば、治まる御代の
このことを土地の者が都に申し上げたところ、
すぐに勅使を遣わし、事の様子を御覧になると、まこと世にもまれな不思議な有様であった。辺りの里人を近づけて、勅使が事の
「さようでございます。この泉が湧き出ることは、昔もそうだったのか、またこの頃湧き出たのか、それは存知ませんが、私は年寄りの父を持って居ります。その父を養うために、山に入っては薪を切り、これを生活の糧にして居りましたが、ある時、山道の疲れにこの滝川のほとりに休み、なんとなくこの水を手に汲んで飲みましたところ、疲れもやみ、心も若やぎました。急ぎ家に運んで、父にこれを与えたところ、年取った父もこの水を飲んでから、何時の間にか白髪も変じて黒くなり、足も軽く、夜の寝醒めもおっくうがらず、朝寝であったのも起き易くなり、疲れることもなくなりました。それでこの水を朝夕に汲んで飲んでいましたら、何時しか自分の身も年寄る事がありません。こういう訳で、飲み始めた人々も、この不思議を知ったのです」。
勅使も不思議に思って、この滝壷に立ち寄り、よくよく泉の出る所を見極めて、すぐにそのまま都に帰り、この由をありのままに奏聞したのだった。帝も大いに感心なさり、すぐに年号を
こうして年月が過ぎていくうちに、また人々の
というのは、
「昔もこのような事があった。このまゝにしておけば、土地の人々はことごとく鬼神に滅ぼされてしまう。たまたま我々のような者が残って留まっていても、このように戸を閉じて家に籠もっていては、田を耕す事もできない。そうなれば将来も不安である。こうなったからにはこの事を都へ訴え、なんとか信濃の国が平安であるようにしようではないか」。
「それはもっともだ」ということで、我こそと思う者、数十人が連れだって、都を指して上ったのである。
かくて都に着いたので、事の仔細を宮中に奏聞したところ、帝はたいそう驚かれて、その十人の者を召され、尋ねさせられた。事の始終を詳しく申し上げると、
「昔もこうした例はあります。天智天皇の御代にも、藤原の
帝は、もっともと思われて、「そうであるならば、誰に命じたらよいであろうか」と仰せになる。
内大臣は「
帝は、「それならば
大臣は驚き、すぐに參内なされた。帝が仰せになるには、「信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、国中の人々を悩まし、往き来の人を殺す事は怪しからんことである。お前は急いで信濃の国に下って退治せよ」との
大臣は勅諚を
「お前の言うことももっともであるが、人の多いその中で、お前が選ばれたことこそ
大臣はこれをお聞きして、
「重ねて申しあげれば勅諚に背くもので、命を惜しむに似ています。そういうことならば、出かけましょう」
といって、帝の前を引き下がって宿所に帰り、身内の郎党に
「なんとお前達、よく聞け。この頃、信濃の国戸隠山に鬼神が住んで、人々を悩まし往き来の人が困窮していることを国の者が申し出た。そのような時に、我にその鬼神を退治せよとの勅諚が下ったのは、家の面目、末代までの
二人の者は承り、
「これはたいそうな大事だ。人も多いその中に、只今ご主人にこの勅諚を下される事、家の面目は何事もこれにしくはない。たとえ神通力をもった鬼神であっても、目にさえ見えれば、どうして滅ばさないでおかれようか。その上、勅諚であるからいよいよ頼もしく思われる」といって喜ぶ事、限り無かった。
「お前達がいうように、勅諚を持って行くならば、少しも心配することはない。とはいいながら、神仏を頼むべきである。我は、この年月、長谷の観音を信じてきた。参籠したくは思うけれども、大事の宣旨なれば早く出かけよう」といって、長谷の観音へは使者を送り、自身は、養老二年九月中旬に、
大臣は、「夜が明けたならばあの戸隠山へ分け入ろう」といって、かの三人の者を呼んで、山の様子を尋ねられた。三人の者は、
「さようでございます。あの山というのは、越中の立山、そして加賀の白山へと続きますが、険しい事はなかなかのもので、鳥でなくては通いようもありません。老木が茂っていて月や日の光さえ明らかではなく、木の葉が積っていて道も無いので、たまたま往き来する人も帰り道が分かりません。目を
大臣はこれを聞き、「いずれにせよ、夜が明けたらあの山へ分け入り、山の様子を見よう。そして、鬼神が我等を騙そうと出てきたときに、こちらの思い通りに退治しよう」とおっしゃって、この夜はそこに泊まられた。
そうこうするうちに、山の端が白み、横雲が棚引き、日の光もしだいに差してきたので、大臣は、「人が多くては思うようにならない」といって、「
大臣は真新しく照り輝く
残りの者共は皆麓の
こうして主従三人は、足に任せて山に分け入った。
誠に聞くにもまして凄まじく、頃は九月下旬の折なので、峰の木枯吹き
このように気持ちの悪い険しい所を過ぎて、少しおだやかな所に出て、とある木陰に三人は立寄って息をついた。
大臣は、
「これ程まで分け入り、早くも夕日は西に移ったが、眼に見えるものはなにもない。てっきりこれは宣旨に
二人の者はこれを聞いて、
「まこと、常は里までも下りて人の命を奪う奴めが、このような所まで我等がやって来たのに害を為さぬのは、てっきり宣旨に畏れたか、ご主人の威勢に恐れたからであろう。いずれにせよ、この山に何年いようとも、鬼神の姿を見ずには山を下りられようか」と申しあげた。
大臣はこれを聞かれて、
「よくぞ言った、俺もそれは心得ている。この山で暮すことになっても、鬼神の姿を見ずには二度と故郷へは帰るまい」といって、腰につけた
そうしていると、峰の方に人の声が聞えたので、大臣は不思議に思って、「これこそ例の鬼神であろう。行ってみよう」とおっしゃるので、また遠くまで分け入り登っていくと、美しい女房が二人、涙を流していた。
大臣が「これこそかの
河麿が「お前達は何者だ。なぜこの人も稀な山に住んでいるのか、怪しいぞ」というと、女房は、「私たちはこの山に住む者ではありません。麓の者です」と答える。河麿はこれを聞きて、「それならいいのだが」といって、急ぎ帰って大臣の所に行く。
大臣は御覧になって、「おいおい、お前達よく聞け。この山に鬼神の住むところがあると聞いている。
女房は涙を流して、
「さようでございます、私どもは存じません。この峯の向こうに気高い
大臣はともかくもこの女房を連れて、また峯を
「どうされましたか、皆様方。私は怪しい者ではありません。どうしてお隠れになりますか。早く出て来て下さい。」とおっしゃれば、女房達は恥かしそうに出てきて、
「御姿をお見受けしますに都の人と思われます。私たちはこの山に住む者ではありませんが、訳あってこのような
大臣は御覧になって、
「どうして恥じられることがありましょうか。一樹の陰の宿りにも、
女房これを聞き、
「都の人と聞けば懐かしく思われます。ならばこちらへおいで下さい。道をお教えしましょう。とはいうものの、一河の流を汲む酒を、どうしてお見捨てになっていいものでしょうか」と、御袖に縋って酒を勧める。
やはり情のない岩木ならぬ身であるので、大臣たちは心弱くも立ち寄って、林間に酒を暖め紅葉を
大臣が、
「どうか皆様お聞き下さい。本当でしょうか、この山に鬼が住むと聞いていますが。どこにいるか教えて下さい」とおっしゃれば、女房達はこれを聞いて、
「左様で御座います。この山には
大臣たちが側にある岩を枕として、少しまどろんでいると、女房共はこれを見て、「してやったり」と喜び、今迄は女と見えていたのが皆凄じい鬼となり、「急ぎ九生大王にお伝えしよう」といって、鬼の
いたましいことに、三人の者たち、まさに危うく見えたのだが、
「どうしたことだ、
大臣は夢が醒め、かつぱと起きて御覧になると、辺りにいた女は一人もいない。家来の二人の者も同じ枕に臥している。大臣は声を張り上げ、二人の者を起せば、河麿・貞雄は夢から醒め、かつぱと起き上り、四方をきっと見廻して、「これはどうしたことだ」と言う。大臣は「不思議なことだ。只今の女は皆この山の鬼だぞ。用意しろ」とおっしゃって、上に着ている
そうこうしているうちにも、例の女たちは皆鬼の形を現して
「このように騙したので、大臣たちは前後も知らずに寐ています。急ぎお出になられて、早く
大王たいそう喜び、「よくぞ言った」といって、すぐに
「これはどうしたことだ」と慌て騒ぎ、ここかしこと探せば、三人の人々これを御覧になって、「おう、鬼神が出たぞ、一人も打ち漏らすな」といって、木の陰から現れ出でて大音声をあげていわれる。
「おいこら鬼神、しかと聞け。
「何、王土を犯すだと、昔はそうだったかもしれないが今はちがう。手並の程を見せてやろう」といって、三人の人々を中に取り囲んで攻めるが、もとより剛なる人々であって、もみあって闘う。
鬼神は通力を得たもので、悪風を吹かせ火を飛ばせ、谷を
九生大王はこれを見て大いに腹を立て、「憎き奴らだ。さあ、俺の手並の程を見せてやろう」といって、小高い岩の上に跳び上り、大臣を睨んで立ったのだが、それは身の毛もよだつばかりであった。
三人の人々がこれを見て、
どうにもこれには防ぎようもなかった。鎧の袖を頭にかぶり、木陰を求めてあちこち逃げ回っていると、どこから来たのであろうか、鷲・熊鷹の二つが飛んで来て、その舞い上る鬼の首をつづけざまに蹴りつけ、数千丈の深い谷の底へ蹴落せば、首は微塵に砕けてなくなってしまった。
三人の人々はこれを見て、いよいよ忝いことだと手を合せ伏し拝んだ。
「今はもう、目的の鬼は滅ぼした。心掛かりはない」といって、木陰に立ち寄って少しお休みになっていたが、まもなく日も入ったので、もとより山路に月がなくては道も見えない。「それでは
麓に残っていた大勢の者共は、「どうなさったであろうか、心配だ。さあ、お探ししよう」といって、道も見えない険しい山を、あちこち尋ねまわるその心がけは頼もしいものであった。
こうしてその夜も明けたので、三人の人々は、斬り殺した鬼の首を、二つ持って帰ろうとするが、貞雄が、「今はもう目的の鬼は滅ぼしたので、気にかかる事もない。いっそのことあの鬼の
なお谷を指して下りて行くと、そこに大きなる
谷に下り峯に登るうちに、帰るべき道が分からなくなった。あちこちと迷うけれども、行く先は詰っていて岩石だけである。「どうしよう」と天を仰ぐが、大臣が仰るには、「知らない山路に迷う時は、谷に従って出れば必ず里があると云う。さあ、谷の水をたどって行こう」。そこで流をたどって山を出ようとした。
こうしているところへ、麓から尋ね入った大勢の者が、あちこちと尋ねかね、声を上げて呼ばわった。
「この
信濃の国の里人は、このことを聞くやいなや、「それにしても有り難いことだ」といって、みんなして出て大臣を拝んだ。大臣はそれからすぐに、「先ず都へ人を上らせよう」といって、
一方、都では、大臣が信濃の国へ下られた日から、毎日人を出して、大津・
「では、迎えを
一方、大臣は「少しでも早く上ろう」と仰って、鬼の首を持たせて、次の日、信濃の国をお出になれば、国中の人々は、「それにしても有り難いことだ」といって、皆して大臣をお送りする。まことに
かくして大臣は近江の国、安川で御迎の人にお会いなされ、みんな馬から下りて挨拶があった。そして信濃の国の人々は、大臣に御暇を申しあげて本国に帰り、喜び合ったことはこの上ないことであった。
大臣はたいそうな様子で都にお入りになり、道々の御迎えにはそれぞれ挨拶があって宿所に入ると、「そのまま
「まことに並ぶもののない手柄である」といって、ただちに、大臣には信濃国を下され、その上
大臣は、「この度の忠孝はひとえに長谷の観音のお守りがあってのことではなかろうか。さっそく参籠しよう」とおっしゃって、二人の少将を引き連れて、観音に参詣し、三十三度の礼拝を奉り、それから堂塔を一宇も残らず建立した。八十八間の廻廊、四十四間の廊下、仏前の道具をすべて金銀で磨き立て調え、これらは末世の今になってもそのままで、世にも珍しいことである。
さて大臣は急いで戻ると、二人の少将を近付け、「お前達のこの度の忠孝は数える暇さえない。その恩賞に」といって、信濃の国の
「この度この国の鬼神を従えた事、これも一つは帝のお陰、または神仏の力である。まったくもって人間の力だけでできることではない。けれども勅諚を頂いたからであろうか、思いどおりに鬼神は滅びたことだ。方々も、勅諚とあるならば、かならず畏れはばかりなされよ。こうした変化の物までも勅諚の前には滅びるものであるぞ」といろいろの物語をすれば、国の人々はそれを聞き、「まことに畏れても畏るべきは帝のお陰である」と、皆々御暇を賜り、自分の家に帰ったのだった。
さてその
帝はその二つの鬼の首を御覧になって、いかがしようかと思われたが、「このような物は末代迄も語り伝えさせよう」ということで、七條河原に獄門に懸けて曝されたのだった。「誰も彼も帝を敬まい申し上げよ」と、見聞く人々も勅諚を畏れ申し上げれば、いよいよ帝の威勢目出度く、靡かぬ処もないのであった。
謡曲『紅葉狩』は浄瑠璃となり草双紙となり、さまざまに脚色されていきますが、これに
序
「
明治十九年六月
戸隠山鬼女紅葉退治之伝
纂輯人 斉藤一柏
同 関 依川
清和天皇の御代、
呉葉が利発なことは大人も及ばず、読み書き、算用、琴三味線、和歌の道までも優れて育ち、十五、六歳になる頃にはその美しさに惹かれて言い寄る者も多く、会津の里に近い村の
この源右衛門の家に代々仕える
翌朝、二人は笹丸方へ行き、近くの村の金持ちの家といって呉葉の嫁入り話を持ちかけるのだが、呉葉の美貌と才知を頼りに都に上り、身分ある者へ嫁がせたいと思っていた親の笹丸は二人の申し入れをあっさりと断わる。断られた千代平、一昨年笹丸に貸した十五両の返済を申し入れ、出来なければ呉葉を主家源右衛門の家に奉公に出すようにと迫る。迫られた笹丸は、貧苦に迫り独り娘を取られたと世上に評判立つならば生きて甲斐なし、とはいえ返す金はなし、申し訳に切腹仕る、と騒ぎ出す始末。それを妻の菊世と娘の呉葉が止め、勝丞と千代平はこの騒ぎにあきれ果てて、いったんは引き下がるのであった。
さて、笹丸は勝丞と千代平が帰ったあと、声をひそめて妻子に向かい、「呉葉をとられては都に出て高貴な者に嫁がせる夢はついえる。こうなったらこの家を立ち退いて都を指して逃げるしかない」と打ち明ける。これを聞いた呉葉は「私を守る神様に頼みましょう」といって庭に出ると、天を仰いで何か秘文を唱えた。と、不思議なことに呉葉そっくりの娘が現れ「これを身代りに嫁入らせ
一方、勝丞と千代平は、笹丸の腹切り騒ぎに驚いたが、返す金が出来る訳はない、金の代りに娘を受け取って源右衛門殿へ茶の間奉公させようと、翌日出かけていけば、案に相違して腹切り騒ぎを謝る笹丸。
呉葉を迎えて源吉の病はすぐに回復。源右衛門夫婦以下、家中の者は呉葉を生き神様と敬っていたが、ある日、源吉が見ている前で、「
都に上った笹丸は名を
紅葉の才気と琴の技はいつしかに
かくて経基公の寵愛を受けることとなった紅葉はいつしか御種を宿し、「多くの侍にかしずかれ、父の伍輔も武士となり、身をも家をも起したいものだ」と悪念を起す。それには
経基公の側用人
戸隠の山奥に捨てられた紅葉は、経基の子を身ごもったために御台所に罪を着せられて流罪、伍輔と花田は
一方、悪事に傾く心の紅葉は夜な夜な男姿になると離れた土地の富家を襲って金銀を奪っていた。これを知ったあたりの強盗で、
さて、父の伍輔は紅葉の悪行を憂いて諌めはするが、魔王を祈ってもうけた紅葉、悪縁悪果を結ぶとはこのことで悪行の止むことはなく、伍輔はついに病に倒れてこの世を辞すこととなる。かくて鬼武らの四人も遠い村里から若い女をさらって妻にとなし酒色にふければ、手下もこれをまねて
迎え撃つ鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬らは、、
さて、
曲り曲がれる山路を登り裾花川にかゝる藤橋を敵の難所と河野と真菰の兵は賊徒を攻めつけるが、火の雨が降り、足元深かく水が押し寄せて敗北。紅葉の幻術である。これを防ぐには
官兵が一の木戸を破り二の木戸へ迫れば、賊徒の
さて、やっと立ちあがった紅葉を、維茂が老僧にいただいた降魔の剱を矢の根にした白羽の矢で射れば、紅葉の右の肩に立つ。紅葉、今はかなわじと
かくて維茂公は妖賊紅葉退治の次第を都に
鬼の
維茂公は出浦の里に御帰陣、霊験を蒙った七久里の里に鎮座まします北向厄除観音へ御礼参拝、堂宇伽藍を建立。手負いの諸士を温泉に入浴させれば重傷もすみやかに癒えたとのことであった。この七久里の里を当時別処(別所)といった。
戸隠を舞台とした物語を三つ紹介しておきます。
火定というのは火に焼かれて焼身死することですが、心を統一集中させて、無我の境地に入る
「拾遺往生伝」 平安時代後期(『日本思想体系』七より)
考えてみれば、兜率天に
『法華経』によれば喜見菩薩は、違い前世で千二百歳までその身を焼いて
自然の中での行者たちの厳しい修行の地である戸隠山も、次第に寺としての体裁を整えていくと、修行だけではなく学問の地ともなっていきます。そこで学んだ機転のきく子供の話が残っています。
「沙石集」 鎌倉時代中期(慶長古活字十二行本より)
小児の忠言の事
信州に昔ある人がいた。京から好きな女を連れて国に戻った。京には言い寄る人が多くいたのだが、その男達から送られてきた手紙がたくさんあった。それを夫に隠して置いたのだが、いろいろと告げ口する者がいた。夫は手紙を探し出して、自分は字も書けず読めもしない、子どもが戸隠の山寺にいるからと、これを呼び寄せて、母の前で読ませた。母は色を失い、心ここにあらぬ様子であった。この子はよく出来た子であって、普通の手紙のように、おだやかな内容のように、みんな読んだので、恋文というのは、たちの悪い告げ口であったと男は思って、夫婦仲はそのままとなった。この絲母はあまりに嬉しくて、かわいい玩具をつけて手紙を子に出した。
信濃なる木曽路に懸かる丸木橋 踏(文)みし時は危うかりしを
(信濃の木曽路に懸かっている丸木橋を渡ろうと踏んだときは本当に危ないことでした→昔の男からの手紙を見たときは、本当にはらはらしました)
この子からの返事には
信濃なる
(信濃の園原に立ち寄った訳ではありませんが、どの木も箒木と思うばかりでした→誰もかも母と思うばかりです)
かの
いろいろと脚色されて後世に伝わっているが、もともとの『沙石集』ではかなりに世相を反映している。おそらくは武士の世の中になり、信州のこの男は無学ながらも地方の有力者であって、都から没落貴族の娘を家の格付けのために娶ったのであろう。二人の間の子を世継ぎにするために以前の妻との間の子は寺に入れられる。そして貴族の娘であった継母にむかし都でつきあいのあった男から手紙が届くのであって、いま現在不倫をしているのではない。だからこそ子供も別のことのような手紙として読むことが出来るのである。父の家を継いだということはおそらく継母が恩を感じてこの子をもり立てたのであろう。閔子騫は春秋時代の儒学者。稚児の塔は公明院と奥社の間にある。
戦国時代に戸隠では真言派(当山派)と天台派(本山派)の争いがあったといわれ、現在では天台宗の寺と真言宗の寺の争いのような話に変形されているが、もともとは戸隠の修験道を真言系ととらえるべきか天台系ととらえるべきかの争いで、寺と寺の争いとして伝えられたのではありません。一七二七年に別当となった乗因の『戸隠山大権現縁起』が伝えるところですが、該当箇所の前半は月々の勤行や祭祀は天台修験によるとか、神前に真言八祖の絵像があるが真言も天台も先輩として尊敬しているので真言系である証拠にはならないなどの理屈が書かれています。ここでは物語的な部分を紹介します。なお、飯縄山から飛んでくる宣澄の死霊は、三郎天狗といわれた飯縄権現のイメージです。
天台派の宣澄が理を正し、言葉を尽くして説きますが、真言派はもとより愚かで無知であり、法義も解らず身の程も知らず、ただ偉ぶって奢っているだけですので、あいかわらず怒り狂って乱暴ばかりしていて、終に七月九日宣澄
この話は後に、西光寺という真言派の寺があったが、宣澄の霊に睨まれて炎上したとも伝えられるようになります。
ここでは、神話・伝説・民話など世に流布した話を縁起や文芸作品などに仕立てた文書を、説話物語と呼ぶことにしました。縁起や文芸作品などに仕立てた物語ですから、世間に口伝えに何となく流布しているものではありません。作者の名前は分からなくても誰かが何時の時代にか書きとめたもので、縁起、謡曲、浄瑠璃、読み本なども含みます。
信仰の山である戸隠を舞台にして、神さま仏さま、そして鬼などが登場するさまざまな説話物語が書かれてきました。その時期は平安時代の末から始まって現代まで至りますが、下限は明治の初めとしました。昔の人々の考えがより強く反映されていると考えたからです。
わかりやすく口語訳し、言葉を補ったり、言い回しを変え、時に要約もしてありますが、内容の変更はしてありません。