戸隠そばミニ資料館
戸隠そばとの出会い
霊峰戸隠山への信仰を背景に、この地が修験道場として栄えた平安時代(→戸隠昔語り・修験道と戸隠山へリンク)、修行僧の携行食糧として村にもたらされたのが「そば」であったと伝えられています。
当時のそばは現在のようなものではありませんでした。修行中の食事という性格上、そば粉を水で溶く程度のものだったと想像されます。やがて、湯でそば粉をこねる「そばがき」や、こねたそば粉を焼く「そば焼き餅」が作られるようになったのではないかと考えられています。
霊峰戸隠山への信仰を背景に、この地が修験道場として栄えた平安時代(→戸隠昔語り・修験道と戸隠山へリンク)、修行僧の携行食糧として村にもたらされたのが「そば」であったと伝えられています。
当時のそばは現在のようなものではありませんでした。修行中の食事という性格上、そば粉を水で溶く程度のものだったと想像されます。やがて、湯でそば粉をこねる「そばがき」や、こねたそば粉を焼く「そば焼き餅」が作られるようになったのではないかと考えられています。
私たちが普段「そば」と呼んでいる麺は、いわゆる「そばきり」。その起源に関しては諸説あるものの、江戸時代に「そば=そばきり」が定着したのは確かなようです。
戸隠のそば打ち・そばきりの歴史も、江戸時代に始まりました。記録によれば、江戸の寛永寺の僧侶に教えられて広まったもの。戸隠寺の奥院が別当(地域の総支配人)をもてなす際、特別食として用意したのがそばきりだったと書かれています。奥院の院坊跡から発掘された江戸期の出土品の中にも、伊万里焼の「そばちょこ」があり、当時、院坊のもてなし料理としてそばきりが食されていたことがわかっています。
以来、各宿坊では、各地から訪れる戸隠講の参拝客にそばきりをふるまうのが通例となりました。かくして「戸隠そば」は名物として全国に知られることとなるのです。
毎年、11月上旬に中社で行われる「蕎麦献納祭」では、白装束に身を包んだそば職人が、うやうやしくそばを手打ちし、戸隠神社の祭神に献上する儀式が行われます。
この祭りは、始まってからまだ30数年と歴史が浅いものの、収穫したばかりの新そばを一番に神様にお供えする儀式として、戸隠人の心と戸隠そばの歴史を今に伝えています。
戸隠そばをざるで注文すると、一口ぐらいの量ごとに束ね、5~6束をひとつのざるに並べた独特の盛り方で出てくることに気づきます。戸隠ではこれを「ぼっち盛り」と呼んでいます。ざるに盛られた一束一束がなぜ「ぼっち」なのは定かではありませんが、この盛り方は、戸隠のそばきりの歴史と深い関わりがあると考えられています。
ぼっちに盛り分けるためには、切れたり折れたりしたそばではうまくいきません。不揃いなそばは、盛り分ける途中ではずされます。見目も味もよいそばだけが、ざるに盛られて供される、いわばハレの料理というわけです。ぼっち盛りは、戸隠そばが神様(権現様)へのお供えや、高貴な方へのおもてなし料理として地域に定着してきたことを物語っているのです。
ぼっち盛りのぼっちは、5つが普通です。一説によれば、戸隠神社ゆかりの神々である九頭龍神(くずりゅうしん)、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)、天表春命(あめのうわはるのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の5柱の5に通じるといわれます。
なお、宝光社では6つのぼっちを盛りますが、これは地域の地蔵堂を加えた数字と考えられています。
戸隠では、そばの専門店や宿坊、民宿など、お客様商売のところばかりでなく、一般の家庭で手打ちそばを出す時も、さりげなくぼっち盛りをこしらえます。機会がありましたら、ぜひ気にとめてみてください。
日本酒の蔵元に下げられる「杉玉」が新酒が出たことを知らせる目印なら、「そば玉」は新そばが出た事を知らせる目印になります。
この「そば玉」は11月の蕎麦献納祭において戸隠の大神様の御霊をいただき、商売繁盛のご祈願をした物です。
また、中間の鼓状の部分は戸隠特産の根曲り竹を用いた竹細工でできています。
戸隠神社 奥社参道杉並木 森林植物園散策の基地として、日本を代表する建築家 隈研吾さんの設計により「奥社茶屋」は、平成15年にオープン致しました。
戸隠山をバックにした静かな佇まい。
黒塗りの瀟洒な建物を店内に入ると一面ガラス張りの美しい空間に自然が映えて、戸隠時の充実した一時が楽しめます。
又、戸隠ならではの手打そばをご賞味頂けるよう各種取り揃えてお待ち申し上げております。奥社の散策と共に「奥社の茶屋」の味を存分に満喫してください。