中社地区 戸隠神社運営の中心地で、中社社殿のみならず、多くのソバ店や竹細工店で賑わっています。

  道祖神
中社地区入り口の道祖神で、外界からの禍を防ぐといい、宝光社入り口の前原にあった道祖神と同じ意味を持ちます。
この先に宝光社と同じようにかっては死者を裁く十王堂があり、また今の仁王門屋の所に仁王門がありました。その先にいまでも院坊旅館(江戸時代の衆徒の院坊)が建ち並んでいます。
仁王門手前までの商店などのある所が、かっての門前百姓や商人であった在家の地域で、戸隠の経済活動を支えていました。



  納経供養塔

文化九年壬申年(1812年)に別当尭瓊(ぎょうばん)が建てたもの。日本国中を廻国する修行者が法華経を読誦し、奉納したものを保存するためのもので、経筒を収める穴の空いた本体は巨石の一体彫りです。
明治の神仏分離の影響で、今の手水舎の奥にあったのを移転、再移転されて明治二十年頃に現在の場所に落ち着きました。

  一茶句碑

一茶のもっとも古い句碑は三回忌に信濃町の諏訪神社に建てられたものだが、二番目に古い句碑が二澤旅館の前にあり幕末の頃。

   梟よ都良久勢直せ春の雨     一茶坊
     ふくろうよ つらくせなおせ はるのあめ
もっと人に好かれるような顔つきをしろ と妻が一茶に意見した句かともいわれます。碑の側面に「六川村 重蔵立之」とあり、今の小布施町六川で、一茶の門人もいて戸隠講もありました。一茶の戸隠来訪は文化十年(1818)。

  三本杉    次画面は 「杉の遺伝子
  イの杉  鳥居をくぐって階段を
  登ったところ。幹が3つに分かれ
  ているがこれではない!!!
   ロの杉 鳥居を正面に見て右側に
   ある杉。うずらやという蕎麦屋の
   横にあります。
  ハの杉 鳥居を正面にみて左側
  にある杉。久山館入口横にあり
  ます。
 杉の遺伝子

うずら屋横のスギ(ロ)は奥社本殿近くの山王岩のスギと挿し木による同一の遺伝子をもち、これら二本は三本杉の内の石段上のスギ(イ)と同じ母樹による兄弟関係にあります。ただし、どちらの木から挿し木を取ったか、またどれが母樹となったかなどは不明です。奧社と中社は離れていますから自然にそのようになることは考えられず、人間が何らかの信仰的な意図を持って挿し木をしたことが想像されます。

  中社社殿
中院の創建は、寛治元年(1087年)、時の別当が「三院そろうのが良い」という夢を見たことによる。御祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)で、智恵の神・学業成就・開運の神様として信仰されています。
天照大神が岩屋に籠った際、どうしたら天照大神を導き出せるかを考えた神様です。
本殿は昭和17年(1942)に火災に遭い、昭和30年に再建され、本殿と拝殿が一体となった独特の形態。河鍋暁斎による天上の龍の絵が素晴らしい。

  青龍殿(宝物館・参集館)

宝物館と参集館が併設されています。
中社境内東側にあります。
宝物館には江戸時代の参詣絵図や重要文化財の牙笏法華経残闕などが展示されており、戸隠信仰の歴史をたどることができます。

参集館は祈祷者や挙式の親族待合室として利用しています。
詳しくはホームページをご覧ください。

 五斎神社拝殿

中社地区の氏神様となっている五斎神社(諏訪社)の拝殿ですが、参道に直行しています。つまり、この拝殿の階段に向かって左方向に本殿がある珍しい配置になります。
ただ、元は神楽殿であったようであり、さらにそれ以前は法華堂であったと思われます。現在は地域の催し物などにも使用されていますが、江戸前期の建物と考えられ、その軒はセガイ造りという雪で重くなる屋根を支えるようになっています。

  宣澄社
戦国時代、戸隠では真言派と天台派の争いがあり、応仁2年(1468)に天台派の宣澄が真言派に殺されたといいます。その死霊は目は日月、嘴は尖り、左右に翼、爪は長く葬られた飯縄山から夜な夜な飛んできて真言派の悪党を悶絶させたとのことです。
毎年8月16日、中社五斎神社の境内の祠と碑の前で「宣澄踊り」が奉納されます。修験道に深く関連した踊りとされ、これが元になった踊りが、からす踊りとして北信濃一帯に伝えられています。長野市無形重要文化財です。

  津村信夫文学碑
詩人津村信夫は昭和9年、軽井沢で小山昌子と出会いデート先に選んだのが戸隠でした。戸隠の自然が、人情が、歴史や伝説が息づいてるのがいい、山ならではの食があり、そして人情の細やかさがいいと言っています。
そして、足の速い戸隠天狗の伝説、宣澄さんのお祭り、これらを次々に文学の世界に取り込んでいきました。
「戸隠の絵本」の冒頭を飾った詩「戸かくし姫」の碑が有志によって極意家の裏山に建てられています。

  道標

中社鳥居前の角、お土産屋の前にある道標です。これは明治の神仏分離の時にも梵字が削られずに残っている道標です。

  右 ほうくわうゐん 左 せんくわうじ


とあり、「ほうくわうゐん」の方へ行くと神道を経て宝光院へ出ます。
「せんくわうじ」は「善光寺」です。「せ」は濁点があるようにもみえますが、はっきりしません。

  守護不入の碑 久山館・旧顕光寺本坊の勧修院敷地内

久山館へのアプローチを少し行くと守護不入の碑があります。江戸時代、顕光寺は千石を幕府からもらい代官を置いて地域を支配していました。領主にあたる別当は寛永寺が派遣し、戸隠領は大名の支配する藩と同じようなものでした。そこで周囲の藩に対して戸隠は独立性を主張したのがこの碑です。
江戸中期の別当・乗因が建立しました。正面に「山中支配領内守護不入」右側面に「戸隠山別当職勧修院」とあります。

  足神社

足神さまは鬼女紅葉の手下、おまんを祀っています。女賊、鬼女紅葉は都から追討に来た平維茂に敗れ、手下のおまんも追われる身となります。おまんは非を悔いて戸隠の住僧・寛明の手で出家した後、懐剣でのどを突いて自害します。
足神信仰は各地に見られますが、ここでは七十人力の怪力の女であったおまんが、足神さまと結びつくことで俊足の女という伝承も生まれました。


戸隠古道 宝光社地区 神道・火之御子社 中社地区 奧社道・越後道など 奧社