宝光社地区
手前の、ほぼ平らで地蔵堂や墓所のある前原と、両側に昔の院坊であった旅館(聚長家)が立ち並んだ坂道、そして突き当たった所の石段を登った宝光社社殿が宝光社地区です。

  川端康成文学碑

現在の吉田分校の校庭に川端康成の文学碑があります。昭和11・12年に戸隠を訪れた川端康成は、戦地の兄を思う戸隠の巫女を中心に「牧歌」を書いています。その一節をとった文学碑です。

    戸隠には古都のやうに 美しい子供がゐる

   その典雅清麗の面差の子は 礼儀正しく

   山は厳しく水清く 少女の髪は黒く 少年の唇は赤く

   お宮かお寺じみた家は 柱が太く屋根の萱が厚い

  道標 商工会館前

商工会館・観光案内場の角にある道標には、

  右宝光院御宮  左鬼無里

とあります。
「左鬼無里」は戸隠往来と呼ばれた大望峠に続く鬼無里への道でした。

ここから始まる前原地区は、坂道の上方の宝光社の人々にとっては村はずれで、墓地のある死者の土地、あの世を意味します。死者を救う地蔵堂もあります。
飯綱方面からやってきた参詣者は、商工会館の手前にあるしめ縄をくぐって、死者の土地を通り、信仰の地である宝光社に入ることになります。

  動物供養碑

鬼無里へ続く道の道標の反対側へ、ほんの少し進むと動物供養碑が草むらの中にあります。
「如是畜生発菩提心」(このように動物といえども菩提心を起こす)とあります。「梵網経」(ぼんもうきょう)などに「汝是畜生發菩提心」(お前は畜生であるが菩提心を起こせ)とあるのが、変形したのかも知れませんが、滝澤馬琴の『南総里見八犬伝』で多用されて、動物の供養碑に「如是」(このように)が多く見られます。
この地域は人間にとっても動物にとっても弔いの場であったのです。

  双体道祖神

中社の場合も同様ですが、村の入り口には道祖神が祭られます。前原の墓地の前に立つこの双体道祖神には煤がついています。内と外の境にあって外から禍が入るのを防いできた道祖神は、毎年1月15日に行われるどんど焼きで一年間の禍が焼き払われます。

サエノカミとかドーロクジンともいわれる道祖神は、双体とは決まっていないのですが、中部地方を中心にして男女二体のものが見られ、ここでも双体です。この場合は、男女和合の神ともされます。

  地蔵堂
閻魔様は地蔵菩薩と見なされ十王の中心でもありますので、地藏堂は十王堂とか閻魔堂(焔魔堂)といわれることもあります。地藏菩薩と十王の他、神仏分離で神社の外に出された仏像等が安置されています。十王とは亡くなった人の魂が死出の山を越えてから生前の罪を問う裁判官たちのことです。
地蔵堂の中には下体埋蔵の地藏・十王像・厨子入り木造十王坐像・延命地蔵・木造地蔵菩薩半跏像・役の行者像・学門行者像・十六羅漢像などが安置されております。下記に画像があります。
拝観されるときは鍵を管理する隣接のそば店「二番館」に声掛けをお願いします!!
    延 命 地 藏    閻 魔 大 王   十王のミニチュア
下体が地中に埋まっているのが特徴で、一年に少しずつ浮き上がり、全部浮き上がった時に、世の中に大変なことが起こるといわれています。 十王の中心の閻魔さま。中国の宋時代の裁判官の制服を着て、上に開く冠をかぶり、開け首の道服を著し、両眼を見開いた叱咤の表情を示しています。 司命、司録、倶生神、人頭杖、浄披璃鏡、業秤、脱衣婆、鬼などが付されております。
  学門行者  役行者
戸隠神社の前身である顕光寺の縁起『顕光寺流記并序』によれば、嘉祥二年(849年)に学門行者が戸隠山に登り、毒気を吐く九頭龍を鎮めたといいます。戸隠の開山者としてその像も長く祭られてきましたが、明治の神仏分離によって顕光寺が戸隠神社として神道を奉じるに当たり、社内から出されることになり、いまはこの地蔵堂に祭られています。 役行者は飛鳥時代から奈良時代の呪術者で、修験道の開祖とされています。ここ戸隠では、学門行者以前に、山岳の周囲百余里を七度取り巻き、頭を高妻山の峰に持ち上げた九頭龍を小さな蛇に戻して巌窟に封じたと言います。学門行者と同じ理由でこの地蔵堂に移ってきました。
  蘭喬句碑(地蔵堂前)

地蔵堂の横に長野市平林の俳人・闌喬の句碑が建っています。
1864年に建立されました。
もともとは奥社にあったものを神仏分離の時に移したといわれています。
大念仏は大勢が集まって念仏を唱える行事で戸隠でも念仏が盛んだったようです。

     声無九亭
(こえなくて)
    
       大念仏や
     
         苔の露      墨林庵 蘭喬
宝光社の武井旅館入口にも門人の句とともに闌喬の句碑があります。

  幽魂碑

地蔵堂の反対側、墓地横に石段があり、上に幽魂社碑があります。
安永
9年(1780)戸隠に雪舟(そり)事件と呼ばれる宝光院衆徒と中院衆徒による争いが起こりました。薪の切り出し運搬の権利などに関する争いで、宝光院衆徒は支配者である別当へ抗議のため院坊を出て、本寺の寛永寺や寺社奉行に越訴したが敗訴してしまいます。そのため宝光院に戻ることも出来ず追放となり、他国で亡くなりました。幽魂社碑は衆徒17坊の霊の帰還を祈って明治14年に建立されたものです。

 蘭喬句碑 (武井旅館前)



 神つ代乃 明けるや

  花の あかり先   蘭喬

   宝光社参道
地蔵堂から宝光社社殿に向かって坂道を登って行く途中、現:奥田旅館の場所にかつて随神門(仁王門)がありましたが、昭和20年(1945)の大火で焼失してしまいました。この場所から上に院坊旅館が並びます。
左の写真は宝光社参道入り口です。 右の写真は270段余ある階段です。途中女坂もありますので、体力と体調に合わせて御参拝ください。

  宝光社社殿

神仏習合時代の面影が強く残る建物は、万延2年(1861)に建立されました。奥行きの深い妻入り形式が特徴で、善光寺と似ています。

御祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)で中社の御祭神・天八意思兼命の御子神であります。

技芸裁縫、安産、女性や子供の守り神。

  
  宝光社社殿彫刻

向拝柱(左)の象と獅子木鼻。
宝光社社殿の軒を飾る彫刻の数々は幕末から明治にかけて活躍した北村喜代松作と推定されています。
西頸城郡市振村出身で、善光寺で仕事をしている時に長野村の北村家に婿入りし、上州、北信、上越、越中の三十余りの社寺の建築を手がけています。
戸隠近辺では鬼無里神社の屋台が有名です。

  宝光社の御輿

文化元(1804)年、神田鍛治町法橋善慶の指揮による製作。この制作時に奧院、九頭龍社、中院でも同形の御輿が造営され、総工費522両かかったといいます。

桧材。路盤153センチ角。4本の胴柱の外径は99センチ。屋根上の如意宝珠、水煙、鳥居上部の瓔珞、四隅に吊された鈴は真鍮に金メッキ。
文化十三(1816)年に修復されています。

七年に一度の式年大祭には中社まで担ぎ上げられます。

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