戸隠古道
 昔、戸隠に参詣した道を戸隠古道といいます。メインは善光寺から七曲がりを登って飯綱山麓を通るルーの面影が残されています。
 一の鳥居から宝光社まで43丁=約4.7㎞ 中社から奥社まで36丁=約4㎞
 一の鳥居から中社まで53丁=約5.8㎞   ちなみに・・・【一丁=109m】
一の鳥居附近の古道入口 古道を行く 丁  石 石  畳

  戸隠古道  一の鳥居跡地→大久保の茶屋→祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔
一の鳥居苑地の駐車場からバードライン沿いに五分もおだやかに登った所に一の鳥居跡があります。山犬が出ると恐れられた飯綱原に、寛政年間(1789~1801)に石の鳥居が作られましたが、弘化四年(1847)の善光寺地震で倒れ、現在は巨大なその一部が残っています。
その鳥居の中に戸隠山が見えたとのことです。
ここから昔の戸隠神領で、戸隠神社五社を巡るこの道を、今は【戸隠古道】と言っています。
清々しい空気を吸いながらゆったりと古道を散策するのも最高!日頃の時間とはまた違う時間(とき)の流れが感じられます。近くには六十六部供養塔(下記参考)や道標である丁石など昔の信仰の往来を偲ばせるものもあります。

一の鳥居苑地の駐車場です。
飯綱登山の駐車場としても使用されています。
道の反対側は長野カントリークラブのゴルフ場です。
一の鳥居苑地や古道沿いには唐松やりんどう等々、植物が豊富♪鳥やセミの鳴き声もよく聞こえます
  一の鳥居跡地の六十六部供養塔
鳥居跡の南側に建つ六十六部供養塔です。

六十六部とは全国六十六ヵ所の霊場に「法華経」の経典を一部ずつ納めて巡礼する行脚僧
(あんぎゃそう)のことで、六十六部行者、六部行者、廻国聖(かいこくひじり)などとも言いました。室町時代に始まり、江戸時代には、僧侶のほかにも、鼠木綿の着物を身につけ、手甲に甲掛、股引に脚絆、そして仏像を入れた厨子を背負って、鉦や鈴を鳴らして米銭を請いながら往来したといいます。
この塔も満願結縁し、納経し終えた記念に建てた塔でしょうか。
法華経は戸隠の修行者にとって特別なもので、戸隠古道を歩くと多くの法華経に触れることになり、中社の宝物館には重要文化財の法華経が展示されています。

「文化戌辰年五月吉日 是より戸かくし迄五十二丁」と供養塔の裏にあります。
 一の鳥居跡地の道標
一の鳥居からの戸隠古道には一丁ごとに道標となる丁石が建っています。

昔の丁石は持ち去られたり、欠けていたり、埋もれていたりと大部分は残っていません・・・
近年新しく設置されたものになりますが、丁石をたどるのも古道を歩く楽しみとしてはいかがでしょうか。
わずかに残る昔の丁石をぜひ見つけてみてください!

写真の道標は

  従是中院神前迄五十三丁


と彫られており、一の鳥居跡の横にあります。

  戸隠古道  一の鳥居跡地大久保の茶屋→祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔

一の鳥居から七丁、大久保の茶屋に出ます。
柏原方面からの下道(表道)と善光寺からの戸隠表参道の出会う所です。
戸隠講の一行はここで名物の力餅を食べ、宿坊からの迎えの人馬と落ち合い、振る舞い酒で元気づけて戸隠に入ったと言われます。
茶屋は現在は蕎麦屋として営業しています。
明治23年(1890)、小説家・山田美妙も戸隠を訪れています。もちろん自動車などはなく、「単衣にくくりつけた高袴、脚半と足袋とで 足をしめてそして前夜用意した日和下駄」という今では信じられないような出で立ちでした。

 戸隠古道  一の鳥居跡地大久保の茶屋祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔

ここで中院道と宝光院道に分かれます。
中社へは右の道を進みます。石畳など古道の雰囲気が味わえます。

宝光社へは左の道を進みますが、自動車道となりますので注意が必要です。もちろん右の中社への道を進んでも途中から宝光社へでることが出来ます。古道を味わうには右の道がお勧めです。

この分岐点には下記のように道標が2基あります。
  祓沢の道標
左側の道標には

 左宝光(院)御宮迄十二丁
 従夫中(院)御宮江通ぬけ

とあります。
右側の道標には

 右ちう(ゐん)
 左ほ
[本]うくハう(ゐん)御宮道

とあります。( )の中の字と最上部の梵字は明治の廃仏毀釈の時に削り取られてしまいました。

  戸隠古道  一の鳥居跡地→大久保の茶屋→祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔
祓沢の上に広がるそば畑。春は菜の花が満開になります!手前の山並みが戸隠山(戸隠表山)で、中央奧に戸隠裏山の高妻山が見えます。
戸隠表山には三十三の窟があって、昔の修験者の修行の場所でした。蟻の塔渡り
(蟻の徒渡り・蟻の戸渡り・蟻の門渡り)という狭い尾根のあるベテラン向きの山です。裏山には、一不動から十三虚空蔵菩薩のいわゆる十三仏が祭られ、高妻山には十の阿弥陀を祭っています

  戸隠古道  一の鳥居跡地→大久保の茶屋→祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔
案内板に新しい橋が出来た時に古い橋を供養するためとありますが、死んだ身内の供養のために橋を架け、完成の時に法要をしたことを記す碑でしょう。
 文化七寅午歳七月造作之
       徳善院順寛・村越義光
とあります。文化七年(1810)、中院の徳善院(現:極意家)の取次によって村越義光が建てたものかと思われます。
  左 ぜんくハうじ道 右 うへの村みち

と彫られて道標も兼ねます。上野村は信仰の地である戸隠を支えた、標高の低い農業中心の村です。

  戸隠古道  一の鳥居跡地→大久保の茶屋→祓沢→そば展望苑→橋供養石→熊の塔

一の午王
(ごおう)橋供養石の反対側、小高い丘の上の林の中に、五輪塔があります。下から地輪を意味する四角、水輪の丸、火輪の三角(笠)、風輪の半球、空輪の宝珠からなって全世界を表していました。
高さは170センチほど。この塔は水輪の丸が抜けていますが、長い間には抜けたり、別の物で補ったりすることはよくあることです。
五輪塔は各地にあって、死者の供養のためや墓標として作られてきましたが、今ではその意味も不明になり、熊の霊を弔ったなどといわれています。最近では熊野信仰の跡だなどという人もいます。


戸隠古道 宝光社地区 神道・火之御子社 中社地区 奧社道・越後道など 奧社